ありがとう、お父さん

3月31日。
ステージ1B、リンパ節転移もなく5年生存率70%といわれた
肺がんの手術をしてから、あと2週間で丸3年という日、父が亡くなりました。
葬儀の日は桜が満開で、去年は母や親戚とお花見に行って楽しかった
ゆうとったなぁと思い出しました。
fbには書かせていただいていたのですが、早急にしなければいけなかった
役所や年金の手続きも終わったので、こちらでもご報告させていただきます。


長文になりますし途中、症状なども書いております。
体調が悪い方や、身近に体調の悪い方がいらっしゃる方は
無理して お読みになりませんよう、お願いいたします。
写真のあと、文章が始まります。


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毎月通っていた緩和ケア外来から、昨年12月に最期を過ごしたホスピスを紹介され、
私が紹介状や父のCTデータなどを持って、ホスピスの先生に挨拶に行き、
病棟の見学もしました。
一部屋だけベッドの奥に6帖ちょいの小上がりの畳スペースがあって、
そこに付き添い用ベッドが置いてある部屋がありました。
実家はふだん畳生活。
ここの部屋なら付き添っても、畳生活ができるから少しはラクかもなぁと
思いながら見学。

父が入院すると言わなければ無理してさせることはないから・・・
とのことだったので結局、その時は いつでも入院できるように荷物の準備だけして
在宅酸素を受けながら自宅で過ごしていました。


私が実家に帰っていた3月21日、血痰が止まらなくなり、訪問看護師さんに連絡。
父の状態をみた看護師さんが緩和ケア外来に連絡してくれましたが
「うちではなくホスピスに行った方がいい」と言われ、
私がホスピスに連絡し入院許可をもらい、準備していた荷物を持ってホスピスへ
向かうことに。
でも、あれだけ出ていた血痰がホスピスに連絡している頃には、
すっかり止まっていました。
箱ティッシュとナイロン袋を持って向かいましたが、必要ありませんでした。


止血剤を打ってもらった父は何日かすれば自宅に帰れると思っていたようです。
週末、緩和ケア外来の先生が お見舞いに来てくださいました。
自分の病院では外来はあっても、ホスピスとしての設備が整っていないことも
詫びておられました。
単なる一患者である父を見舞ってくださるなんて、本当にありがたかったです。


3月25日、再び血痰。
先生から、まず私に体調が大変悪いことと残り時間が長くないことが告げられ、
私が母にその話をかみ砕いて伝えました。
母はそこまで早いとは思っておらず、ショックでしばらく何も考えられない状態でしたが
ゆっくりゆっくり私が説明をし、数時間してやっと母も納得してくれました。

その日の午後、父本人に最期が近づいているとの告知がありました。
「自分がしっかり話せるうちに会いたい人、話しておきたいことがあれば、
しておいてください」と。
いくらホスピスとはいえ、いきなりそんなことを言うなんて!と
思いましたが父は全く動揺することなく、すぐに父の姉二人に
連絡をしていました。
その後もイライラしたり、落ち込むこともなく温厚な父のままでした。

入院を知った二人の姉や親戚達もたくさん会いに来てくれました。
「もう、なご~ねんじゃて。今までありがと。葬式にゃ~来てもらわんとおえんけど、
よろしゅ~お願いします」
父本人の口から姉二人に、こんな言葉が出た時、自分からお別れの挨拶ができる人が
どれくらいいるだろうと、告知してもらってよかったと思いました。
ただお姉さん達は父本人が連絡してきたし、会っても普通に会話できるから
そんなに早く亡くなるなんて思ってもなかったそうです。


翌日26日、家をそのままにして出てきた母が1泊で帰り、
私が初めて泊まりました。
その夜、せん妄の症状が出て 立ちあがったり、起き上がったりで
その度ナースコールをして一睡もできず。
万が一、私が寝てしまった時に立ちあがったりしても看護師さんが気付くように
ベッドの足元にセンサーマットを敷いてくれました。

27日朝、先生から私に、もってあと1週間との告知。
それまではモルヒネを経口投与していましたが、モルヒネの24時間注射と
夜間の睡眠薬注射を始めることになりました。
病室にはソファベッドではなく、付き添い用にちゃんとしたベッドが
ありましたが、別に仮眠室を借りて昼は母、夜は私が父に付き添うことにしました。
母は体が弱く夜、薬を飲んでしっかり寝る必要があったので、
仮眠室があったのは助かりました。



その日以降、食べる量がどんどん減り、水分もだんだん欲しがらなくなりました。
亡くなっていく人として自然なことなのだそうです。
それでも亡くなる前日の30日夜、ホスピスの許可を受けて入院した日から飲んでいた
日本酒を冷たく冷やしてストローで少しと、漬物を少し口にして「美味しかった」と。
看護士さんが「最後は冷たいかき氷を美味しいゆう人が多いんよ」と言っていましたが
父らしく日本酒が最後になりました。

その夜、今まで痛いと言ったことのない父が痛みを訴えたので
モルヒネの量を増やしてもらい、早朝には また痛みを訴えたため再び増やし、
ふだんなら朝で止める睡眠薬の注射を、寝れていないないだろうからと、
時間を長めにしてもらい、もしかしたらこのまま眠るようにお別れなのかも・・・と
思っていましたが、31日の夕方、私が仮眠から起きた頃から痰が出て出て
吸引も追いつかず・・・苦しい顔で亡くなりました。
父のあの顔は忘れることができないでしょう。



葬儀が終わって、父の最期のことを思い出してしまった私は
当直明けで父の最期に立ち会えなかった主治医の先生に
勇気を出して電話しました。

・水分を摂っていなかったのに、どうしてあの時に痰が出て止まらなかったのか?
体内の水分が出ていくというお話はしましたね。尿もたくさん出ましたよね。
痰も水分になので体が不要だからと出そうとしたんです。


・最期、苦しい顔で亡くなりましたが本人はどれほど苦しかったのでしょうか?
これは個人差がありますが、モルヒネを あの時点でずいぶん使っていたので
お母さんや娘さんが思ってらっしゃる程、ご本人は苦しくはないと思います。
もしモルヒネを使っていなかったり、使う量が少しだと もっともっと苦しかったと思います。

単なる自己満足かもしれませんが先生の言葉を聞いて
モヤモヤした気持ちもなくなりました。



あと数日とはわかっていましたが、最期は私達にとって急すぎたし
眠るように亡くなることはできませんでしたが、
いろんなことがタイミングが良かった・・・といっては語弊がありますが
実際、そうとしか思えないのです。

実家に帰る前日まで予定を詰め込んでいた私。
実家から自宅に戻る日の午前中に入院。
もし母だけだったら、冷静にあちこち連絡ができていなかっただろうと、
母も言っています。

入院したいとホスピスに電話した時、その時に空いてる部屋が和室のある
部屋だけだったこと。
見学した時に、この部屋ならいいなぁと思っていた部屋です。
母も「畳じゃけん落ち着く」と言ってくれました。

チケットも購入してあったし、朝は血痰が出た父も落ち着いていたので、
落語に行った夜。
本当はその日に母は自宅に帰りたかったそうです。
でも私の予定を優先してくれて翌日、母が自宅に帰っていた夜に
せん妄が出たこと。
先生からも「娘さんが泊まっていた日で良かった、お母さんだったら
パニックになっていただろうから」と。
私でも心臓が飛び出そうなくらい驚いたくらいです。
これが母だったら・・・。

そして亡くなったのが私が仮眠から起きた後。
夜中なら薬で朦朧とする母を起こすことになっていたでしょうし、
朝なら私は眠れないまま父を看取り、その後の段取りに入っていたことでしょう。

偶然だろうけれど、最期まで私達のことを考えてくれていたんだなと
思うことにします。
ありがとう、お父さん。


重い内容の文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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by HW37 | 2013-04-09 23:47 | 父のこと
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